4月 数楽の会

4月15日(日)新生【数楽の会】を開催することができました。ご来場ありがとうございました。

 

退職後初めての開催ということで、私の中ではリスタート(再生)の意味がありました。

期せずして午前中は下関・宇部・萩・山口の合同掃除に学ぶ会で鍵山記念館、耕心の里をきれいにした後、松岡さん、高橋さん手打ちの美味しいお蕎麦をいただいた後という、超贅沢な気持ちの良さの中でできることに感謝しています。

また、新月を迎える日で転換期バリバリ感ただよう日でした。

 

冒頭、鍵山相談役のお言葉から紹介。

会でもお話しましたように、ずっと何のお言葉からスタートしようか?と悩んでいました。

一週間前にやはり初っ端は「凡事徹底」であろう!と決めました。

そして『一日一話』を開きましたら、なんとなんと!4月15日にこのお言葉があるではないですか!!!

本当にびっくりしました。いや、こんなことがあるのか!と神の配剤に違いないと確信しました。

 

この『一日一話』は発刊されて14年が経ちます。

教員室の机上にずっと置いていました。(『森信三 一日一話』と共に)

その日の、その月のお言葉を毎日朝礼前に読んでいました。(身心の健全化のために(^_^;))

 

私は本を疑って読みます。理由は2種類あります。

1つは、自分自身を疑うということです。「きちんと読めているか?己の精神状態、身体の状態は今どうなのか?」また、「その言葉の解釈は本当にそうなのか?」という問いを持ちながら読みます。毎年違う読み方ができてくることに驚けるのです。

もう1つは、本そのものを疑うことです。これは文字化することの宿命なのですが、その時に書いた、または喋ったことは、その時のことである。ということを分かっているか?という問いです。

著者がその時に書いた、喋った、思っていたことと、現在は違うかもしれないということを含んでおかなければならないと思うのです。(もちろん変わらないこともあるでしょう)

 

人は日々刻々と変化します。

 

または、同じ言葉でも、本で使ってある言語と自分が日ごろ使っている言語のニュアンスが違う場合もあります。その方の置かれてる境遇、時代背景、と現代の自分の置かれているそれと比べながら読まないといけないと思っています。

 

先にも述べましたように文字化の宿命ではありますが、「凡事徹底」という言葉だけが独り歩きしてやしないか?そんな問いを投げかけさせていただきました。

 

皆さんが眠くなる頃を見計らって「ミニひもトレ講座」。身体の不思議を体感していただきました。

御大の「うそじゃろ!」が嬉しかったです(^o^)

 

そして、岡潔の紹介と「日本的情緒」より、日本人にとっての「善行」とは何を指すのか?について皆さんと考えることができました。

 

駆け足で盛り沢山で声枯れで申し訳ありません。

今は「私はこんな話がしたい人です」アピールキャンペーン中ですので(どんなだ?)「もっと詳しく」とか「もっとゆっくり」などのご要望がありましたらお気軽にお申し出ください。

 

この会は人数を多く集客することを目的としていません。

小さく、回数を多く、一人一人のお顔が分かる、声が届くように心掛けています。

出張もいたしますのでお気軽にお声掛けください。

 

終了後、私と岡本さん小林さんは記念館の整備をしました。松岡夫妻重枝さん松田さん部坂さんも遅くまでお手伝いいただきました。お疲れ様でした。

 

本当に気の良い仲間が集まると気持ちがよく心地よい空気が流れます。

感謝申し上げます。

ありがとうございました!

 

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3月 数楽の会

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豆蒔き?豆撒き?豆ぶつけ?

今日の授業は「節分」を扱った。

 

私「今はお正月だね?」

生徒「???」

私「豆まいた?」

生徒「はい!」

私「なんで?」

生徒「???」

私「何の豆をまいたの?」

生徒「??? 多分大豆?」(落花生や飴という生徒もいた)

私「なんで大豆なのかね?」

生徒「???」

私「節分って何?」

生徒「季節の分かれ目」(読んだだけ・・・ 立春!という声も・・・)

私「何と何の?」

生徒「冬と春」

私「そうだね。でも今日はぶち寒いよ。春?」(寒波が来て-3℃の日)

生徒「・・・」

 

答えは言いません。そもそも1300年も続いている伝統に今の価値観が通用するはずもなく、後付けの理由が多いと思われるからです。

調べるヒント、問いを立てる練習として挙げているのです。私見も伝えます。批判すればいいと思います。だって正解はないのですから。


「大豆」→「芽が出る」→「目?」

「大豆」→「穀物」→「煎る?」

「雪」→「春?」→「暦」

 

など、古典、歴史、文化、宗教、天文、を感じて欲しいのです。そして、”今現在”を客観的に見る力をつけて欲しいのです。時空を超えて先人に寄り添って欲しいのです。

 

この時期、報道では鬼に扮した人間に豆を「ぶつけて」、喜々とした幼稚園児などを微笑ましく伝えます。「豆まき」の様子だと・・・???

明らかに「まいていない・・・」。「食べ物を人に投げつけている」。

そして、「人をいじめてはいけません。」「食べ物を粗末にしてはいけません。」と教えます。

それを約10年間繰り返し、鍛えられて、冒頭の問答になります。

 

楽しい行事としての「豆まき」を否定はしません。ただ、大人の中に10人に1人でいいから、「なんで鬼が出てくるの?」

などの問いを子供にかけてあげて欲しいなーと思うのです。

最近では新聞紙を丸めて投げている幼稚園などもあるそうです。20年後のこの行事は何を何に投げているのでしょうか?恵方巻きの存在も侮れません。まさか・・・合わせ技で・・・(゜_゜>)

 

次は国民的行事「バレンタインデー」が待ってます。怪しい数学教師は言いたいことが多いのです(^o^)

 

 

 

 

 

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1月 数楽の会

遅くなりましたが、1月の数楽の会の様子を報告いたします。
この日は山口市だけ大雪が降っていた日でした。

また、年始の行事等もある中を、縫って参加された方々に感謝申し上げます。今回も高校生から年配の方まで幅広くご参加いただきました。

2部に分けてお話させていただきました。

1部は開催日直前に流れてきた「世界気象機関(WMO)が2017年の世界の平均気温は観測史上2番目に高かったと18日発表した」というニュースの読み方を解説しました。グラフや統計の読み方。また、そこに出てくる「平均」や「偏差」という用語の解説。
実際に気象庁が発表している記事を参考にしながら、「ニュースが何を伝えたがっているのか?」という見方をしてみませんか?という問いかけでした。

 

2部は第2回絵本『アリになった数学者』森田真生著を読みました。

今回は芭蕉の句を引用した「日本人の心」の世界についての表現を勉強しました。

 

ことわざや俳句などを忘れていたりしますよね。親の世代がそれを知らなかったり、使わなかったら、次の世代に繋がるわけがないと思います。言葉は生き物ですから、使わないと死にます。言葉の持っている「熱感」「質量」「動き」などの「情感」を抑揚をつけながら「読む」ということを今後もしていきたいと思います。

 

また、「行きたかったけど行けなった。この話ならば聞いてみたい!」という学習意欲に富んでいる方(笑)はお気軽にご連絡ください。全く同じお話はできませんが、私で良ければいつでもどこでも出張いたします(^o^)

 

今年も【数楽の会】をよろしくお願いします。

 

 

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リーダーに学ぶ

昨年の12/23に行われた「宇部掃除に学ぶ会」に参加させていただいた。年の最後は宇部の水神様と呼ばれる中津瀬神社の清掃で一年を締めくくる。
今の気温から考えると相当暖かかったように思う早朝、各地より30名近い方が年末にお集まりくださった。

冒頭、丸茂宮司にお祓いをしていただいた。いつも思うのだが、丸茂宮司の祝詞は本当に「いいなー」と思う。学がおありなのは間違いないのであるが、場と期をとらえた”いま・ここ”の言葉を紡がれるからなのではないか?と畏れながら感じている。異能の方なので、そういう能力に長けていらっしゃるのであろう。

時と場からの”ことば”を祝詞にする。この場に集う人々のこころに染み入る。それが本当に祝詞なのかなと思う。

手違いで名簿に私の名前がなかった(笑)
急遽、欠員のあったトイレ掃除に配属された。リーダーは鍵山幸一郎さんであった。あとで考えれば、これも神の配剤。
日頃から(前日の飲み会でも(笑))様々な面から勉強をさせていただいているのではあるが、一緒にお掃除をするのは初めてであった。
ここはとても大事なことで、講演をいくら聞いても頭部しか使っていないという事実に気が付かなくてはならない。それを実践、身体を使って、私の言葉でいう”体に学ばせる”ことをしないと、本当の納得はないように思う。

 

ご存知のように、私はこころや身体に関する書籍やニュースを好んで目にし、知識を入れ、考える。そして、実際に整体師に施術していただいたり、食を変えてみたり、薬を飲んでみたり、ヒモを巻いてみたり(笑)、声を出してみたり、座ってみたり等、文字通り人体実験をしてみる。気持ち良ければ(快)続けるし、気持ち悪ければ(不快)やめる。こだわりはある方だと思うけれど、執着はしない。”時”と”場”によって違うものだと思うからである。

書きながら思ったが、”一貫性”は自分で決めるものではないのかもしれない。外から見てそう見えるだけなのかもしれない。

お掃除も(快)だから続いているのだと思う。

 

ここからが本題なのだが、幸一郎さんリーダーに学んだことを、私だけ感じていてはもったいないと思ったので、覚えているだけ記したい。

適材適所と結果予測

メンバーの経験値を瞬時に判断し、人員を配置。掃除場所の汚れ具合と時間内での達成度を予測する。

一番汚れているところを私に任され、みんなが準備をする間に「最初にあらかたきれいにしてあげておいてください」と指示を受けた。特に経験の浅い方が凄い汚れを目の前にし、しかも時間内にきれいにならなかったら、自己嫌悪になってしまうだろう。そして、もう二度とその仕事は自らしようとは思わないだろう。

教師が生徒に苦手な教科の宿題を大量に出すのと一緒だ。生徒はその教科が一度に嫌いになる。

つまり、人に「完璧を求めない」という姿を垣間見た。

リーダーと呼ばれる人によくあるのが、「徹底的に」という言葉のはき違いで、人に「もっと!」を求める人が多い。

 

必要な手順は時間をかけて説明する(焦らない)

まさに「結果を求める生き方をしない」を垣間見た。

「掃除をする」の結果は「きれいになる」である。これがロジックという厄介な誰でもわかる論理である。故に人はこれに惹かれる。そして「正しい」と思いこむ。この発想からお掃除ロボットは生まれたと考えている。

柔らかいものから順に試すことと、箒の立て方をレクチャーされた。

 

道具は箱から全部出さない

全部出してしまう習慣がついているのですね。整然といっぱい並べる癖があることに気づかせていただいた。使うものだけを使う。

 

実体験に基づいた比喩

タオル雑巾のたたみ方の説明で、実際に「こう(普通に)渡されたのと、こう(きちんとたたんで)渡されたのとどっちが気持ちいい?仕事がうまくいくと思う?」と会社の人間関係に例えてレクチャーされた。

たわしで床磨きをするときの洗剤の量についての説明で、「泡が立つほどの量をつける必要がないですからね」と言われた。この話をエコだとか地球環境に例える話はよく聞くが、”誰でも言える話”なのだ。

そこを「歯磨き粉」と「シャンプー」の例を引かれた。特に女性の方相手の話なので、非常に身近な話である。「テレビのコマーシャルみたいに泡立てなくてもちゃんと汚れは取れますからね」と企業戦略を暴かれた。

実際に泡立てずに磨いた後、水で流すときに黒い汁が流れていくのを見て、皆さん納得されたようであった。

ちなみに私も歯磨き粉は一度買うと3年以上は買い換えない。(きちんと朝昼晩磨いてますよ!(^o^))

また、シャンプーも3.4年くらいかな?(誰ですか?髪の量が!なんて突っ込みを入れてるのは!(^o^))

 

水の大切さとユーモア

最後に手を洗うときに、「日本は災害の多い国ですね。その時一番困るのは水です。このバケツ一杯の水で何人が手を洗えると思いますか?こうやって手を洗うとどうですか?」と手のひらに水を掬って見本を示された。

このとき、私に石鹸(ポンプ式)を手のひらに下さいと言われ、つい、思いっきり押したので思わず沢山の量が出たのです。「しまった!」と思ったのですが、すかさず幸一郎さんはみんなの手に分け与え始めました。そして「そうか、私に女性と接触する機会を与えてくれたんですね!」と私の失敗をフォローしつつ、笑いの場に変えていただけました。

「分かち合う」ということをレクチャーしていただきました。

 

水神様だけに”水”のお話で終わりにします(*^_^*)


鍵山幸一郎様、世話人の宮川様、そしてご縁をいただいた方、ありがとうございました!

 

尚、ここに記していることは、あくまでも私が感じたことであって、鍵山幸一郎氏の意図とは違うかもしれないことを申し添えます。文責はすべて私にあります。

 

長文お読みいただきありがとうございました!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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壊れることは悪いこと?

お正月は家内の実家で過ごし、こちらに夜帰ってきてお風呂に入ろうとしたら、ボイラーの調子が悪くお湯が出ない。早速アフターサービスに電話して、こちらでできる応急処置をしてみたけどダメだった。しかし、お正月の夜中でも対応してくださる業者には感謝です。このご時世、クレームばかりだろうに・・・と思った。

 

翌日改めて電話をすると、メンテナンスをする方を派遣してくださった。まさにプロフェッショナルな方だった。結果、修理できずに残念がっていらっしゃったが、機器は寿命があるように作ってあるのでしょうがない。大きな出費は痛いが・・・それより、凄いプロフェッショナルと出会えたことに感謝した。帰り際に、コーヒーを飲んでいただき、お土産を渡した。

 

業者に連絡するが、お正月休みなので連絡がつかない。

お湯のない生活を子供が初めてすることになる。

シャワー、洗い物など、子供は、生まれてから当たり前にあったモノが、ないという生活をしている。色々感じ取ってほしい。そして、工夫するということを学んでほしい。

 

お風呂は親元に入りに行かせていただいている。子供たちは何だか嬉しそうだ。親も毎日孫が来てくれるのが楽しみなようだ。

ひと昔の風景である。

無いものは”借りて”いたのだ。または”もらって”いたのだ。

味噌、醤油、お米、電話、テレビ、お風呂・・・
今はどうであろう?無いものは”買う”ことが普通だと教育されている。最悪”盗る”になってしまう。

それはその方が「簡単」だからである。

”簡単で明解”という言葉は聞こえはいいが、裏を返せば”手抜き”である。

人としての情理を尽くすことを「さぼる」ことである。

 

無茶苦茶に自分勝手に生きている人にはモノを貸したり、あげたりはしない。人はそんな生き物だと思う。

しかし、お金があれば自分勝手にふるまえるようになってしまうことは可能になる。そんな世の中だ。

「お金持ちになりたい」=「自分勝手にふるまいたい」ではないのか?

 

ボイラーが壊れていなければ、親と話すこともなかった時間である。「食事もどう?」「お菓子買ってきたよ。」「お茶飲んで帰り。」と互いに気遣う言葉が飛び交う。

頭を下げる、お礼を言う親の姿を子供が見るチャンスでもある。

 

「壊れなければ、築けない(気付けない)」のかもしれない・・・

 

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12月 数楽の会

「数楽の会」の前身「社子屋」から5年が過ぎました。今年は隔月開催から毎月開催に変更しました。1月から12月まで毎月開催することができました。間違いなく、会場「朴の森」の鍵山オーナー、岡本さん、米沢さん、泊野さんのご理解なくしては開催できないものです。そして、参加される皆様の支えがあってこそです。家内を始め家族のサポートも忘れてはいけません。ありがとうございます。

 

今年は4回も外部講師に来ていただきました。

6月はヒモトレの安田さん、8月は能楽師の安田登先生、9月は三砂ちづる先生、10月は独立研究者森田真生先生。

本当にありがとうございました。

 

この一年で、ご縁も広がりました。

参加されるある方がおっしゃっていましたが、「この会に来られる方は気持ちの良い方ばかりですね。」

同感です。

 

今回もその参加された素敵な好意と、「場」の力を借りてとりとめのないお話をさせていただいた。

 

冒頭、昨日の新聞の一面、「ABC予想」のお話から。

「数学のニュースが一面を飾ることはレアである。」ということと、この問題が整数問題であること、そして、今後素数問題解決に繋がり、現生活に及ぼす影響との解説をしました。

 

そして『春宵十話』から岡潔の俳句をメインに、ことばの感じ方に触れました。

 

そして安田登先生の新刊『変調「日本の古典」講義』より「お掃除」の項を抜粋して、日本人の身体と掃除の関係に思いを馳せていただきました。

 

また、今回は参加者の方から事前に「デデキントの切断」と仏教の関係についての質問をいただいていたので、開始前と終了後にレクチャーしました。こんな質問は大歓迎です。

 

忘年会明けの方が多数いらっしゃいましたので、眠くなるのを前提に(私を含めて(笑))企画しました!

 

学問は「役に立つから」する。という立ち位置からちょっと距離を置き、「正解を求める」よりも「問いを立てる」という会にしていきたいと思っています。

お互いがお互いを「揺さぶる」ことができ、それを皆さんが楽しんでくだされば、主宰者としてこれに勝る喜びはありません。

 

今年も大変お世話になりました。

皆様良いお年をお迎えください。

 

 

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捨てる

バランストレーナー 小関勲先生からの言葉を引用します。

【今日のポイント】

一寸先は闇ではないが、スポーツにおいても、世界の情勢においても、どうなるかは予測不可能。

 

だからこそ、標準化したものをどんどん捨てなくてはならない。

捨てる代わりに必要なのは、方向性と自由度。

 

【今日の実践】

方向性を決めたらその中で自由にやってみる。

 

 

この時期、不思議に「捨てる」というキーワードが目につくのは気のせいであろうか?(笑)

 

【今日のポイント】の内容は数学を教える上においても、全く同様のことを言っている。「努力する”方向”を間違えるなよ」と口を酸っぱくして言っている。

方向さえ間違えていなければ、速くなくてもいいし、間違ってもそう大過はない。

 

例えば方程式は「式を立て=立式」ことが醍醐味であって、「解く」ことがメインではない。

 

それは「解法」が存在するから。(あくまでも私の教えている高校数学の話です。解くことは技術の上で必要だとも思います。)

 

「解法」が存在するなら、極端な話、あなたが解かなくても誰かが解いてくれることになる。そして、その答えは誰が解いても同じものになる。

できるだけ質のいい解法があれば、誰がやっても同じ「結果」=”儲け”が出る。

 

だとすれば・・・

”あなたは誰にとって替わっても良い”ことになってしまう。

 

つまり、質の良い「システム」と「メソッド」があれば、「人(あなた)は要らない」という結論になりはしないであろうか?

 

このことによって経済的な成功をしているところはあるだろう。「システム」を売りにしている会社だ。その”儲け”によって人が経済的な幸せを享受していることは認めなくてはならない。

だが、それ一辺倒になると「人は”儲ける”ために存在している」ということになりはしないであろうか?

現教育は、そんな「(経済的に)役に立つ人間」を育てることに一生懸命である。小さいころからそのマインドが育てば、将来使いやすい人材になるからだ。そして、使い捨てできる人材になるからだ。

 

「自由」を担保するということは、「失敗しても良い」ということにも繋がる。

そして、もう一つ大事なことは、「時間軸」が導入されるということである。

生物は、いつ、花開くかは誰にもわからないし、開いていても、誰も気が付かないということさえある。

名を歴史に残している人の多くは、亡くなってから賞賛されることがほとんどである。

 

「標準化」=「公式」を手放した時に、「自由」と「時間」を手に入れることができる。

その中でどう人は変容するのか?その可能性にとても興味がある。もちろん、自分を含めて。

 

そして、それに共感する人達で、それを知らない子供たちに、そんな世界もあることを伝えて行きたいと思う。

 

絶滅危惧種にして保護してくれないかな?

保護してもらえる?(^o^)

 

 

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「百術一清に如かず」

「百術一清に如かず」

師のお言葉の中で好きな一つです。

頭の中がごちゃごちゃしているときは、身の回りがごちゃごちゃしていることにさえ気が付かない。

 

洗面台の撥ね、水垢、ここそこのほこり、いらないはずのレシート、使わないサービス券、録画したまま見ない番組、いつのかわからない雑誌、読みかけだらけの本、あちらこちらでもらったポケットティッシュ・・・気が付くでも山ほどある。

 

意識には上らないだろうけれど、「身体は気づいている」と思うのです。それが無意識下でイライラさせる原因なのかもしれません。

 

あれこれ考えるより、目の前をきれいにする。

分かってるんだけどなー(^_^;)

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試験心得

本日のお説教から。
「受験するということの目的は?」と尋ねた。

回答の中に「自分の実力を測る」というのがあったので、まずはそこから。

「それを主客倒錯というのだ。それは出題者がすること。君たちは測られる側である。」

また、「自分の実力を試す」というのもあったので、「例えば100m走の試合で、自分のタイムが何秒か分からない選手がいますか?」「プロ野球の選手が試合の目的を聞かれて、どこまで飛ばせるか試すためです。と言って打席に入りますか?」と質した。そういうことは練習でできますね。

 

ただ、「点を取る」「合格する」という回答ももちろんあった(*^_^*)

当然というか、その生徒達の成績は良い。

 

大まかにいうと、成績の向上が難しい生徒は色んなことが「他人事」なのである。

 

先ほどの「実力云々・・・」(でんでんではない・・・(>_<))といった生徒は、どこかでその言葉を聞いて、そのまま喋っているのである。日頃の学習をしないための言い訳と考えてもいい。

こういった生徒は、試験中、妙に考え込む。手が動かず、一生懸命考える。私から言わせれば、「考えるふり」である。

 

その問題が、学習してきたことなのか?今の自分に対応できる問題なのか?という視点はない。

 

学習していない問題が時間内に解けるほどの実力の持ち主ならば、すでに成績は高い。

 

100mの競争中に筋トレをしているようなものなのだ。だから点数は散々なものになる。

そして、「テストがムズイ」という(^_^;)すべてが他人事・・・

 

「出題者の気持ち、意図を考えたことはあるか?」とも尋ねた。

やはり、何人かはポカンとしている。「例えばフィギュアスケートで4回転ジャンプを選手が跳ぼうとするのはなぜか?」と聞いた。「点数が高いからです。」と正解を言う。「スピンはなぜするの?」「表現力や美しさを見られるからです。」その通り!
その問いにおいて、何を聞かれているのか?何を試されているのか?を把握しない問題は、基本的に解けません。「計算の正確さ」「時制の書き換え」「単なる知識」などのどの分野を尋ねられているのか?を読み取ってますか?

 

「文脈」というものは目に見えない、「意図」というのも目に見えないし聞こえない。
しかし、読み取るとは、ここにいないはずの出題者の気持ちや声が聞こえることだと思う。

そして、その能力を高めることを「学習」というのだと思う。

このことについてはまたいづれ・・・

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丁寧

12月に入りました。

昨日「明日から先生は走るの?」と友人からジョークがメッセージで送られてきたので、「息切れして走れません。(+_+)”師走ず”(しわず)です」と返しました。(^o^)

 

大学受験も佳境に入ってきて、日誌にも「一日が48時間あればいいのに」「一日があっという間に過ぎる」などの記述が目立つようになりました。あれもこれも気になってきて焦ってくる時期です。

 

入学して一貫して言ってきたのは、「質の良い食事をとること」「湯船につかること」「早めに寝ること」です。つまり、「自分の身体を丁寧に扱いなさい!」ということです。この経験や生き方が花開いてくるのがこの時期です。

老年になってあちこちの身体に不調が出てきたときに「若いとき無茶したからなー」と思っている方は多いですよね。

 

自分の身体を丁寧に扱わない人が、文章を丁寧に読むこと、出題者の意図を感じることに秀でるとは思いません。もっと言えば、等身大の己のクセを見抜いている人は強いです。

 

例えば、文章を読んでいるとき2行を超えると飛ばし読みをする癖があるとか、計算で2×3がつい5になっちゃうとか、aやxの文字が出てくると、-の記号を書き忘れるとか、何がしかみんなそんなクセを持っていると思います。大事なのは、それが”良い悪い”ということではない。ということです。そんなクセを持っているというただそれだけの事なのです。ただ、色んな自分自身のクセを知っている人とそうでない人は、試験問題に対する取り組み方が違ってくるはずなのです。

 

自分が文章を読むスピードが遅いことを知っている人は、制限時間内に2回読むことは無理であることを知っているでしょう。すると初見が全てになるので、アンダーラインをひきながら読むとか、読み飛ばしをしないとか、より集中力がでてくると思われます。

それを知らない人は、何回も読んで、「時間が足りませんでした」とずっと言っていることでしょう。

 

もっともっと自分の身体に優しく接してあげないといけません。つい私たちは”自分の身体”だといって乱暴に扱います。「自分の所有物なんだから、好きに使ってもいいだろう」なんてことを思っては傲慢なのですね。思うように動いてくれないのが体だということは嫌というほど知っているはずですよね。試しに早口言葉を言ってみればすぐに分かります。(^o^)

 

「自分の脳を過信するな」とも言っています。「身体全てを総動員して脳を助けてやれ!」「そして、その工夫をしろ!」

昨日はそんな課外授業でした。

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立ち上がる

「立ち上がってごらん」と言われて君たちは立ち上がれるよね。でも私は立ち上がれないんだ。なぜだか分かる?

授業でのお説教場面だ。

生徒たちは椅子に座っている、私は教壇に立っている。

”立っている人は絶対に立ち上がれない!”

 

私たちは生まれてすぐに立ち上がらない。寝返りをうちはじめ、ハイハイをし、何度も尻餅をつきながら必死で(記憶がないので多分)立ち上がる。そして、色々な何かができるようになる。

残念なことに、一度立つことができると、意識は「こけないように」と向いてしまう。だって、せっかく立ったのだから・・・

ここからは脳内の学習的な意識の話。
身体的な「こける」は脳内的な「間違う・失敗する」として話す。「こけたくない」は「間違えたくない・失敗したくない」である。

人はこけたとき、何かにすがったり、人の助けを借りたり、または、全身を使って立ち上がろうとする。何度も経験するうちに何かを体得する。つまり”成長”である。

「わらにもすがる思いで」という例えがあるが、こけると「わら一本」であってもつかんで立ち上がることができる。こける前より「わら一本」アイテムが増えているのだ。

 

学校というのはもしかしたら、生徒を「こけさせる」装置なのかもしれない。社会というものも我々を「こけさせる」装置なのかもしれない。こけるべき時にこけないと、変に踏ん張ったり、ごまかしたり、嘘をついて避けてしまう。大けがをするときは大体そんな時だ。

または、難なくそれから逃れたと思っても、いずれまたやってくる。次は更に嘘やごまかしを強固にしないといけなくなる。

 

今の世の中、デコボコの道はほとんどない、道も舗装され、床でも平らにして「こけにくく」してある。こけそうになるとクレームがくる。こける側の成長するチャンスは失われている。

「今は安心して間違えなさい。授業中にいくら間違え、失敗しても、大けがはしません。私が何回もこかしてあげるので、何かつかんで立ち上がってきなさい。成長しなさい。」

 

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11月 数楽の会 

11月26日に「数楽の会」を開催しました。「数学」の話の会には初めて参加の方が多かったので嬉しかったです。
高校生の方も初参加されて「楽しかった!」と言ってくれたのが印象的でした。

導入は茶室の紅葉を見ていただき、「キレイですね!どうしてキレイと感じるのでしょうか?」という訳の分からない問いから始めました(笑)。そして、ちょっとヒモトレを挟み、身体の運用の不思議にも触れていただきました。

不思議なことを不思議のまま受け入れるということ、それが「生きる」ということではないのか?

そして、「数と図形」の話へ。我々は数を実際に見たこともないのになぜ分かるのか?

それから本題の『アリになった数学者』森田真生著を皆さんで読んで、解説しました。
私自身解説しながら納得、再確認することも多く、とっても有意義な時間になりました。森田ワールドに少しでも興味を持っていただけると嬉しいです。
ゆっくり読み進めていきますので、今回参加がかなわなかった方も次回いらっしゃってください。

ご来場ありがとうございました!

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10月特別講座「講師 森田真生先生」

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福岡伸一氏「動的平衡」聴講

2017.10.15(日)この日は朝から雨が降り、一気に冷えた日だった。午前中は模試監督があり、生姜を沢山入れてもらった温かいうどんをすすってセミナーパークに駆け付けた。他の行事もあるのであろう、駐車場はいっぱいで第8駐車場に案内された。開場までまだ少しあるのでロビーを歩いていると、待ち合わせている足立さんから声をかけられた。
約2か月前、この講演が開催されることを知り、絶対に行こうと決め、3つの端末で申し込んだ。そのうちの一つが当選した。幸運であった。この日は全国各地で行きたいイベントが重なった日であった。体が4つくらい欲しい日であった。仕事が私を山口に留めた。そして、チケットの当選である。神の配剤を感じずにはおられない。
最前列に陣取り聴講した。

「生命を捉えなおす~動的平衡の視点から~」というタイトルで青山学院大学教授の生物学者福岡伸一先生が登壇された。冒頭自己紹介をされ、スライドを使われるため中央を避けられて、サイドのPC前に座られた。座るや否や、用意された水のペットボトルの蓋を開けられコップに注がれ飲まれた。約2分間、200人の聴講者はその仕草を固唾を飲んで見守った。静寂が会場を包んだ。
生命とは何か?科学者はその研究に最も興味がある。数学もその過程で生まれたものであると私は認識している。『動的平衡』という著書を読んではいるが、生で著者の口からそのことについてどう説明されるかに非常に興味があった。

自らの幼少期からの興味関心事やエピソードを説明され、顕微鏡を発明したオランダのアントニ・ファン・レーウェンフックに興味を持つところから始まる。彼の近くに住む画家フェルメールが友人であったことにも興味を持ち、原画37枚(素数だと喜んでおられた(笑))を全て観に行き、(盗難のため一つだけまだ見てない)結局コピーの展覧会までするようになるとのお話しもされた。『芸術と科学のあいだ』という著書も出されている。

生命体の細胞やそのシステムを解析するとその機械的なメカニズムが判明する。究極がヒトの遺伝子、ゲノム解析は終了した。しかし、それで生命が分かったことになるのであろうか?私にはこんな問いに聞こえた。福岡氏は「生命のもっている別のメッセージが見えなくなる」とも言われた。有名ではない化学者ルドルフ・シェーンハイマーの言葉「生命は機械ではない。生命は流れだ」を引用された。

”流れ”とはどういうことなのか?人は食べ物によって絶えず”作り変えられている”のだそうだ。一番入れ替わりの早い場所が「消化管」だそうだ。実は大便のほとんどは消化管の細胞の残骸であるとのこと。食べ物のカスは微量だそうだ。だからトイレに行って流すときに「さようなら、昨日までの私!」と手を振るのがいいのである。約1年でほとんど別人になるそうだ。だから1年ぶりに会って「久しぶり!変わってないね」というのは生物学的に言うと間違いだそうである(笑)

 

動的平衡とは

「作ることよりも壊すことを優先する。変わらないために少しずつ変わり続ける、分解と合成の絶え間ない均衡」

そしてこの「平衡」を「バランス」と訳された。ヒモトレ発案者の小関勲先生はバランストレーナーという肩書をお持ちである。生命、肉体のバランスに着目する点で共通項をみた。ここでいうバランスとは平均台のようなものではない。つまり、右か左か、足りないから足すなどというものでもない。言葉にすると嘘になるのだが、実感としてはある。この話を聞いたとき久しぶりに脳内発火が起こった。浮遊していた様々な問いがスパークして繋がった。

 

そして「相補性」という言葉を教えていただいた。ある細胞がなかったら、ジグソーパズルのように周りのピースが支え合ってその空いている真ん中のピースがあるかのようにふるまう。細胞レベルで助け合い、支え合いをしているのだ。自己責任などと言っているのは人間が作った社会のルールなのだ。

薬の害悪についても花粉症の薬を例に説明された。”動的平衡のリベンジ”という恐ろしい薬害。つまり飲めば飲むほど効かなくなり、過剰に薬が増えていく。まるで麻薬のように。

翌日の授業はもちろんこの話。中間試験の前日。世の中は試験勉強の時間に使うのだろう。ごめんね。

福岡先生、山口県に来ていただきありがとうございました!

 

 

 

 

 

 

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授業の一コマ(ベクトル)

昨日、数Bの「ベクトル」の章を終了した。

実質受験で必要でない生徒が大半の中で、納得させることが難しいといわれる「空間ベクトルの一次独立」の問題をレクチャー。

空間上の直線を想定し、空間上にできる任意の平面との交点Pの位置ベクトルを求める問題。これを図を使わずに想像上で立式し解いていく。

経験上、女子は苦手なところである。

入学当初から、数学が苦手な女の子とのやりとり。

私「分かる?」(半信半疑どころか2信8疑・・・)

生徒「分かります。」

私「は?!?!?」(申し訳ないがにわかには信じられない)

私「OPベクトルが平面ABC上にあるためにはOQベクトルがどうなればいい?」(信じてない・・・しかも意地悪)

生徒「k倍です。」

私「!!!」(合ってる・・・)

(この時点でこの子は脳内で直線が伸び縮みしており、なおかつそれを数学的に表記できる力があると推定できるのだ)

私「それで、次は何が言える?」(おいおいもう十分だろ・・・)

生徒「各係数を足せば1になると思います。」

(同一平面上にある4点のうち3点でもう1点の位置ベクトルを一次独立で表現したとき、その係数を足すと1になるということを理解しているということになる。)

私「感激!!!」(一同どよめく)

彼女にはエアハグ券1年分を贈呈しました(^o^)。

ベクトルの章の導入にはキリスト教の概念を教えます。そして創世記の紹介から入ります。神と最初の人間アダムとイブが登場します。この発

想、関係性が西洋から発展したベクトルの概念になっていると私は思っているのです。ですから、日本人には馴染みが薄いとも感じられます。数

学は、言語、文化、歴史的背景と密接に関係をして発展をしていると思います。そこを理解すると見えてくるものがあります。大体それなしでは

楽しくないと思うのです。

途中で、相合傘を書いたり、ゴキブリが飛んだり、ネズミが走ったりとするのですが、半年間よくぞついてきてくれると思います。

生徒には本当に感謝いたします。

社会人の方、もちろん学生さんも、この授業を聞いてみたいというご要望がありましたら、ご連絡ください。

数楽の会で「ベクトル」の回を開きましょう。

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9月特別講座「講師 三砂ちづる先生」

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8月特別講座「講師 安田登先生」

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7月開催「情操と智力」

暑い中を多数参加されました。気温と人数と熱気で本当に暑かったです。
今回は『春宵十話』の「情操と智力」を皆さんで読みました。今回のテーマは、私なりに肝だと感じているところでしたので熱が入り過ぎたかもしれません。余計に暑くしてしまい申し訳ありませんでした(笑)

冒頭、先週同場所で行われた「鍵山秀三郎記念館(仮称)」の地鎮祭の様子から報告させていただきました。
当日は凄まじい雷鳴の朝でした。お祭りが行なわれる寸前にも、風雨が強くなり、テントが飛ばされるのではないかと、テントの支柱を押さえていたほどです。中津瀬神社の丸茂宮司が素晴らしい祝詞をあげていただいたら、日差しが出てきました。とても不思議な経験をしました。この場は神が降りてこられるのでしょう。まさに学びの場としてはふさわしいと感じます。

そして、この会の名前がなぜ「数楽の会」なのかということを、孔子の「六芸」を紐解きながらご紹介いたしました。

本題の「情操と智力」の中の特に「なつかしさ」と「生い立つ」ということに焦点を当て皆さんと考えました。また、参加された方からのリクエストのありました、「数学的自然」についても私なりの解釈を述べさせていただきました。このようなリクエストは本当に嬉しいです!
また、この当時の岡潔が憂いていた日本の状況と今の日本の現状を見比べてどうなのか?そして、これからの子供たちが向かう未来はどんな日本なのだろうか?ということも考える機会になりました。

いつも差し入れを下さる方、社員旅行でのお土産を差し入れて下さる方、初めての方も今回は複数いらっしゃいました。皆様のおかげで、そしてこの場の持つ力でこの会が成り立っています。本当に感謝です。

終了して食べに行ったかき氷が美味しかったです!(^o^)

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6月特別講座「ヒモトレ講習会」

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釈徹宗先生法座

去る5月29日宇部市の渡辺翁記念館において浄土真宗本願寺派自照会50周年記念が開催され、法話として釈徹宗先生、コンサートに二階堂和美さんが登場されました。運よく参加することが出来ました。
春休みに子供を高校に迎えに行ったとき、早く着いたので、近くのお寺にお参りをしました。境内を歩いていたら、なんとなく光を感じて呼ばれているような気がしたので、そちらに向かっていくと、掲示板にポスターが貼ってありました。そこには見慣れた釈先生のお顔が!すぐに写真に撮って釈先生にメール差し上げたら、「そうなんですよ。月曜日だったのでお受けしました。残念ですが日帰りなのでゆっくりお話しできません。」とのお返事。ご存知の方も多いと思いますが、相愛大学教授、如来寺住職であり、私塾練心庵、老人グループホーム「むつみ庵」を運営されていらっしゃいます。同時に執筆活動、テレビ出演(シブ5時・100分de名著)、ラジオ等超多忙なのです。宇部に来ていただくなんてラッキーです。折しもその前の週には河合隼雄賞を受賞なさってましたので、お祝い申し上げなくてはとの思いで行きました。
演題は「なんでお念仏なの?六次のみ名を称えつつ」でした。1000人を超える来場者でした。

導入は、50周年をお祝いなさり、続けるということは先代からのパスを受け取ることであるということを、お仲間の元ラグビー日本代表の平尾剛さんのお言葉を引用され説明されました。(ちなみに講演中は平尾選手のお名前は出されませんでした)あの楕円形の難しいボールをパスするのに、雑に出したパスと、心を込めて出したパスは受け取った感触や、次のプレーが違うそうです。きちんとパスを出す方も受け取る方も誠実にしなければ続かないのでしょう。このお話しを「知恩報徳」という言葉で説明されました。

また、ユダヤ民族がなぜ滅びなかったのか?という問いの答えの一つとして、ユダヤ教があったからだと言われました。あれほどの虐待を受け、放浪せざるを得なかったユダヤ民族は、強烈な行動様式を教えに持つユダヤ教によってイスラエルの地へ逃れることが出来たのだと言われました。

また、鳥取の念仏者源佐を紹介され、日常の生活の中で悟りを開くことができるのだと言われました。”世の生業にいそしむ”という言葉を教えていただきました。
帰って調べたことを記載しておきます。(ウィキペディアより)

因幡の源左(いなばのげんざ、1842年(天保13年)4月18日 - 1930年(昭和5年)2月20日)は、浄土真宗の教えを日常に体現した妙好人の一人とされ、鳥取県因幡国青谷町(現在は鳥取市に編入)に在住した農民である。江戸時代後期の天保に生まれ、18歳の頃、父親と死別する際に、遺言で「おらが死んだら、親様をたのめ」といわれ、寺に参り法話を聴聞し始める。ある日、山へ牛とともに草刈に出かけ、五束の草を刈り取って、四束を牛に担がせて一束を自分で担いで帰ろうとしていたが、重くなってその一束も牛に担がせたとき、阿弥陀仏にすべてを任せると良いのだということに気づき、信心をいただいたという。

その人生は父親が亡くなった後も苦難が多く、息子二人が精神的に弱かったり、火災にあったりしたが、それらを苦にすることもなく、飄々とした人生を歩んだ。源左が著名になったのは、強盗が集金した金を盗ろうとした時、延々と諭しながら歩き、ついに盗れなかったことを警察で話した、その話題が新聞に載ったことからであった。後年納税の推進や祖父母の養育などで緑綬褒章を受けている。その言行は、浄土真宗の法味に富み、のちに聞書が多数出版されていった。ある日、突然の雨にあって帰り、住職に「えらいめにあったのお」と言われて、「鼻が下に向いて付いているでありがたい」と言ったと言う。

彼の口癖は「ようこそようこそ さてもさても」というものであったという。その意味は、この私をたすけるとよくぞ誓ってくださった、さてもありがたい、というほどのもの。

体に染みついた行動様式はいざというときに自分を助けてくれる。スポーツの世界などは顕著であろう。イチロー選手や五郎丸選手のルーティーンなどは分りやすい。
お念仏にしてもまずは称えることが先である。
最近は必ず「何のために?いいことがあるのか?どういう意味か?」が分らないと行動しないという生き方をしている人が多いように思う。いざというときに弱い。パニックになる。

お掃除にしてもそうだと思う。”世の生業の中”にある行為を”いそしむ”ことができているか?損得勘定抜きに、ゴミを見たときに反射的に拾える行動様式が備わっているのといないのとでは、様々な場面において瞬時の対応が変わってくると思う。考えて行動していては間に合わない局面が多々日常にはある。そして、それは多くの場合致命的だ。
逆に、長時間の忍耐を強いられる場合も日常の行動様式だからこそ持ちこたえられる場面がありそうだ。まさにユダヤ民族のように。

釈先生は宗教学者ですので、様々な宗教の違いや、同一性も見抜いておられます。実際にパレスチナなどにも行かれて、イスラム教などにもお詳しいです。人間が生きるということと宗教が共にあることを教えてくださいます。

つくづく思うのです。人間抜きの思想がいかに無意味で危険であるかということを。

私は神道で数学者です。関係ないといえばそうかもしれません。しかし、そうとは思えないのです。理由は分りません。まだ、消化しきれていない部分もありますので追々数楽の会で研究していきましょう!

お祝いに松原酒店で購入した「貴」を休憩時間に勝手に楽屋に差し入れに行きました。(堂々としていると怪しまれませんよ!(^^)!)あまりお酒は飲まれないのですが・・・ ^^)
釈先生ありがとうございました。またおいでください!


 

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5月「数楽の会」ご参加ありがとうございました。

今回は岡潔著春宵十話の「学を楽しむ」を読みました。午前中は赤間神宮のお掃除に参加させていただきました。岡潔は幼い安徳天皇を抱いて入水した二位尼(平時子)が好きだと書いています。青田神職(現松陰神社宮司)がいらっしゃったときは岡潔のお祭りをされていたとも聞きました。そんな午前の赤間神宮、午後の岡潔という不思議なご縁を感じながら、お掃除終了後は浪花の大将荒川さんの大きなおむすびをほおばりました。美味しかったです。

知性、理性、理想、観念といったものを、歴史をみながらそれぞれに紐解いていくことができました。特に「知性の自主性」の大切さや「学問の進化」とはどういうことなのかが漠然とではありますが、見えてきたのではないでしょうか。

最後は参加者のリュックを借りてヒモと身体の不思議さを発見。また、数学の計算の質問もありました。(問題集のミスを発見!)

帰り際に「自分一人で読むのは難しいですね。」と言われる言葉を聞いて、いい会だなと認識することができました。また、「まさに春風が吹くように学びました。」という嬉しいことをおっしゃる方もいらっしゃいました。高校生も参加していただき、「この会を楽しみにしている。」と言われているようです。感謝です。

正しいことを話しているつもりはありません。ただ、考えたり学んだりすることは”損得勘定なしに”楽しいことだと実感していただきたい。そして、学びを継続していただきたい。考えが揺れて変化していくことを感じていただきたいと思っています。
この会は、素敵な場、参加者によって造られています。お茶を飲み、差し入れのお菓子を食べながら、みんなが好き勝手にしゃべってなかなか始まらない(笑)
雰囲気が良いと気持ちが良いですね。

ありがとうございました。次回もご参加お待ちしています。



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授業の一コマ

2時間目の授業中、日頃元気の良い、よく発言する生徒の元気がない。
私「どうかしたんか?」
生徒「大丈夫です!」
しばらく授業をしているとみるみる血の気が引いていくように見えた。
私「どねーかあるんか?」
生徒「大丈夫です!」
私「大丈夫に見えんけーいいよるんじゃろうが!ムカムカしてないか?」
生徒「吐きそうです。」
私「じゃろうな。」
すぐさま、生徒に近づき、怪しい施術を開始。授業は中断。ほかの生徒はじーっと見ている。
私「どねーか?」
生徒「少し楽になりました。」
見ると血の気は戻り、笑顔も出てきた。冗談にも笑う。その後の授業は難なく過ごせた。

後で聞くと、朝ご飯を食べた後すぐにクラブの朝練に出て、1時間目が体育だったようだ。
私のような不真面目な人間はそうはならないが、真面目な子ほど危ない。
体育も一生懸命やったのだろう。

教師という生き物は不真面目な生徒は良く目につき、指導する習性を持っている。


話しの筋は少し違うが、重大事件を起こした生徒についての周りのその子についての印象は、
「普通のあいさつをするいい子でした」「普通の印象ですね」「まさかあの子が・・・って感じです」というものが多い。
教師に限らずそんなものなのかもしれない。

授業で大切にしているひとつは、「あなたは人間なのですよ」というメタメッセージである。
「自分を大切にしてくれる人がいる」これほどの安心感はない。
人は自分が人間であるということは、実は自分ではわからない。他のひと、ものとのかかわりの中でそれを実感するのだ。
事実その後のその子とのコミュニケーションはスムーズになってきた。板書をする回数も増えた。
ほっといても勉強をする。ほっといても賢くなる。人間になれば学びたくなる!

また、他の生徒は目の前の教師が一人の生徒を大事にしているという姿を目の当たりにする。
あの生徒に自分を重ねる。思春期の同化する能力はかなり高い。自分が大切にされているような気になるのだ。
同級生がこっぴどく怒られるのを聞いて自分が怒られているような気がした経験を持つ人も多いのではないか。
その感じを受けたくないから、「怒られているのは自分ではない」と言い聞かせて、「分断」をする。
「あの話は私には関係がない。」こんな生徒が多い。
いじめの根っこがこの「分断」ではないかと考え始めている。最近を取り巻く環境にこの「分断」が蔓延っている。

ところで、体育って「からだをはぐくむ」って書くんだよなー。部活って何のためにするんだろうなー。
部活して体育して体を壊していたら本末転倒ではないか?という疑問が更に大きくなった一コマでした。


 

 

 

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小関勲先生に学ぶ(韓氏意拳&ヒモトレ)

先日、広島の「YASUTAバランスからだ塾」にて行われた小関勲バランストレーナーによる、初日の韓氏意拳と2日目ヒモトレ講習会の午前午後の2部に参加した。2日間通してすべての講座に参加したのは私だけだったようだ。今考えればこれが良かった!何が良かったのかというと、2日間講師の小関先生とは寝るとき以外ずっと一緒だったからである。人に学ぶとはこうしなければならない。お会いする前から尊敬の念は抱いていたが、実際にお会いして、益々それは強いものになった。「ヒモトレ」の発案ということでどれだけの人が、喜び、痛みから解放され、生きる気力がでてきたかを考えると、私は本当に頭が下がる思いだった。鍵山秀三郎師からは「人の喜ぶことをしなさい」と教えられている。それをまさにさりげなく体現されている小関先生に尊敬と感謝の気持ちがずっとあった。

初日の韓氏意拳の講習も私の望む指導法で、本当にしっくりきた。初経験であったが、聞くと指導教官によってかなり指導の仕方が違うらしい。ちなみに韓氏意拳というのは、韓氏(韓という人の名)の意(人に内在する意という概念、意欲、意志等)の拳(武術)という意味らしい。書物でしか読んだことがなかったので楽しみにしていた。小関先生の発する「まだ始まっていませんよ」「今を味わって」「手の行きたいように」「道ができる」等のことばが腑に落ちるのだ。久しぶりに自分と向き合い、自分を観察することができた。そしてそれが今も気持ちがいい。哲学が見えたような気がした。
2日目のヒモトレ講座も小関講師。前日の韓氏意拳の流れがあるので、貫いている概念は同じものが見える。目に見えるヒモとそれに従う見えない意(身体)が合致をみたときにいちいち感嘆の声を上げた。私は両手が後ろから一周した(驚)。怖くない!面白い!

人間は生まれた時点ですべて完璧である。赤ちゃんはどの子も輝いて見えるのだ。生きていくうちに打算で考え始め、身体とともに歪んでいく。本当に多くのことを学ばせていただいた。この時期にお会いできたことに感謝!

小関先生がホテルの部屋にかばんを忘れてロビーに降りてこられたり、預けていない部屋の鍵をフロントにもらおうとされたりしたということは内緒にしておきます。(笑)(まだありますけど・・・)
そして私は終了後、生まれて初めて目的駅に到着しない新幹線に乗ることが出来ました(笑)

韓氏意拳恐るべし!

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山口市掃除に学ぶ会発足&第二回「数」

4月16日は山口市掃除に学ぶ会の記念すべき発足式でした。鍵山秀三郎氏の肝入りの施設「朴の森」で行われました。県の内外から大勢お集まりになり、楽しいお掃除となりました。代表者の松岡さんのご配慮で私のお話しも予定されていました。有難いことです。何を話すか決めかねていましたが、なぜか、その場で肚が決まり、「お掃除の由来について」のお話しになりました。鍵山相談役の念と参加された皆様の清々しい笑顔のおかげだと思っています。ある方の車が溝にはまるというハプニングで時間が押せ押せになった為(笑)、あまり長々とした話にならなかったのも良かったのだと思います。色々なところに神は宿っています。
講義をした姿がヒモ巻き男だったので、皆さん、ヒモにも興味を持っていただきました。これは草刈り機を使ってのお掃除だったので、疲れ、痛みが出ないようにと腰ひもとたすき掛けをしていたためです。変態ではありません(笑)でもちょっと変態ですというつかみもOKでした!

そのおかげで午後の数楽の会にもそのまま残っていただいた方も多くいらっしゃって、いつにも増して賑やかな会となりました。お掃除をした後だからでしょう、いつもより盛り上がり、キラキラした感じがしました。
「ヒモトレのことをもっと聞きたい」という声もありましたので、前半はヒモの説明。後半は「数の種類」についてのレクチャーとなりました。特に初参加のFさん、広島から初参加のMさんが盛り上げてくださり、今思い出しても嬉しくなります。「お好きな数は?」の問いに「不可思議!」の答えには大爆笑でした。こういう塾は本当に楽しいですね。「久しぶりに大笑いした」「もっと聞きたい」「寄席に来たみたい」と嬉しいお声をかけていただきました。

数学って身体って、そして何より”学ぶ”って楽しいですよね。良かったらまた来てください!ありがとうございました!

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新学期始まる

平成29年度の新学期が始まりました。なんと初めての2年連続3年生担任となりました。今まで25年間順調に1年生→2→3→1・・・と来ていただけに私も生徒も驚きました。ただ、驚いただけで、面白いと思う自分もいました。勉強を続けているとそういう想定外のことが起こっても慌てないのだなーと実感しました。
しかし、先日、推薦書、調査書を書いて、センター試験といわゆる2次試験が終わったばかりなのだけど・・・(本音(笑))

早速、生徒と入学式に向けての大掃除をしました。
廊下の掃除をするように指示しました。掃除を嫌がる生徒はいません。ただ観察しているとみんなで固まって廊下の真ん中を磨いてます。
私「そこは汚く見える?」
生徒「???」

私「掃除は汚いと思うところからするんだよ。」
すると、キョロキョロし始めました。が、よくわからない様子。
「きれい」「きたない」の判断が自分でつかないのです。これは感性です。
助言として「ヒント!ゴミは端に寄っていきます。」とだけ言いました。
まず、このクラスの問題点が見つかりました。

しばらくして、昇降口のマットが汚いのに気付いたので、「マットきれいにしようや!」と声掛けをしました。
思った通り表だけを拭いて元に戻そうとしています。(嫌がらずにひざまずいて拭いているのです。大したものですね。)
私「表と裏はどっちが汚いと思う?」
生徒たちはマットをひっくり返しました。
生徒たちは「わー!きたねー」と歓声をあげます。
そして同じように雑巾で拭きだします。土が粘りついているので、拭いても土が取れません。逆に土を伸ばしている状態です。
すると「きれいにならんね」と言って元に戻しました(笑)
この学年の傾向として「すぐにあきらめる」というのがあることは知っていました。
なるほど次の問題点が見つかりました。

近くに水道もホースもあります。または、そばに私もいるのです。
工夫する、助言を求めるよりも、なかったことにする。という選択をしました。
しかし、子供たちだけを責められません。身の回りの大人たちの真似していることに違いないのです。
生徒がホースをつなぎジャー!と勢いよく土を弾き飛ばしだしたら、みんな楽しそうに見てました(笑)
私「箒かブラシで擦ると早いよ」
生徒は次々に参加してきます。
雑巾で水分を拭きとって終了。もちろん「きれいになった」ことは分かったようです。

これだけのことで片付けまで入れると50分かかります。現場で掃除、挨拶を徹底しろと言われますが・・・

鍵山相談役は言われます。「大切なことには時間がかかる」と・・・

短時間で済ます方法はあります。こちらが脅迫して怒鳴り声をあげながら指示をすればよいのです。
そして生徒は「やらされた」「言うことを聞いていればいい」「掃除面白くない」と思うだけなのです。

なにも「学ばない」ということを「学ぶ」のです。

 

ゆっくり教育したいなー。

 

 

 

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「み」と「ひ」

古来より「み」と「ひ」を合わせることによって「中」を発する。と習ったことがある。

 

「右」と「左」→「みぎ」と「ひだり」

お祈りをするときは、右手と左手を真ん中で合わせる。
宗教に関わらず、その行為自体に意味があると感じる。

揺れる気持ち、過ぎた願い、過剰な身体、それを一回止めて両手を合わせる。

 

「水」と「火」→「みず」と「ひ」
火に水をかけると、火は消え、水は気化する。
何も残らないのだ。

「身」と「紐」→「み」と「ひも」
ヒモトレ(紐を使ったトレーニング)を始められた、小関勲さんはバランストレーナーという肩書を持っていらっしゃる。
身体のバランスを整えるということを研究する中で、紐を身体に沿わせるということを提唱なさった。
昨日も、年度末の大掃除で大量の書籍、段ボールを廃棄した。
ゴミの収集場に持って行くのにやはり、書籍、段ボールを紐で縛る。
なぜかというと、整うからである。
バラバラになっているものを整えるという仕事を紐はしてくれる。
持ちやすく、見栄えもよい。


身体についても同じことが言えるのではないであろうか?
何かができるようになるということではなく、身体を整える、つまり、本来ある気持ちの良い姿へ導くという考え方である。

「み」と「ひ」。興味深い。
今度、安田登先生にもっと教えていただきたい!

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ご来場ありがとうございました!

3月12日数楽の会を過去最多人数で開催できた。
冒頭、鍵山相談役の近況報告。そして、発見の型について、東洋的、西洋的な視点から春宵十話を読んでみた。
天から突然何かを授かるというインスピレーション型(覺)。何かを黙々としているうちに閃いてくる梓弓型(悟)。
仕事をしていないときに閃くという事実。右肩上がりの幻想。
みなさん、興味深そうに、笑いながら、頷きながら聞いていただいた。
ありがとうございました。
ところで、私は何色に見えますか?(笑)

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己の身体と社会性

3.11です。6年経ったそうです。仏教でいうところの7回忌ですね。まだまだ避難されている方も多いし、復興もままならないでしょう。ご冥福と、いち早い復興をお祈り申し上げます。

ある方が腰が痛いというのでヒモトレを勧めてみた。「変な趣味と間違われては困るので」と言われた。
また、不眠で悩む方に「素肌寝」を勧めてみた。「違う目的に思われるので」と言われた。
まあ、笑って話す中、お互い気分も害してないので全く問題はない。冗談にも聞こえるだろう。

ここで気がついたことが2つある。
一つはヒモトレや素肌寝を勧めたら、「面白そうだね」と言われる方も少なからずいることだ。そして、その方々は自分の生き方を模索している人が多いということである。
もう一つは、この話を性的なことと捉える人がいらっしゃるということである。
私はそういう捉え方はなかったので、視点の変座になった。
「この格好をしたら他人からどう思われるだろうか?」という2人称、3人称の視座から見ていることである。つまり、他人から自分を見ているのである。
他人から見る自分、これを社会性という。社会の中に自分がいる、という視点である。社会で生きていく上で大切な視座であろう。特に学校ではこれを教える。

対して、自分が己の身体を見ているという視座である。そして、自分だと思われる身体をある意味他人として見ているのではないのであろうか?
自分の身体は自分でコントロールする。脳の全能性、自意識によって自分は動いているという考え方の真逆である。
つまり、皮膚や手足がそれぞれ意識を持っているという考え方である。

面白い!

そして、身体をバランスよく保とうと健康的に生きる姿勢が、他人から見ると性的であるという事実!
なんてすごい発見ではなかろうか?
性的なことは生きる根源である。

よし、性的に生きよう!(笑)
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お土産

福岡と東京を2日間で移動した。
福岡へは車で高速道路を利用した。最近のサービスエリアは使い心地が良く、どこも人が多い。
お土産売り場も生鮮食品を扱っているみたいでまるで市場のようだ。
東京へは空路をとった。羽田空港でもショッピングセンター並のお土産売り場である。全国の産物が並んでいる。(萩のコーナーもあった)

私を含めて、みなさん品定めをして歩いている。両手に抱えきれないほどの袋をぶら下げているご婦人も見かける。(機内に持ち込めるのかな?)
みなさんが買い物をするとき、何を考えてるのかなー?と考えた。きっと、お土産を渡すそれぞれの人の顔を思い浮かべているに違いない。「○○さんはお酒飲むよね。△△さんは甘いもの好き。あの子はこれを買ってきてと言ってた。」等
少なくとも私は財布の中身と相談しながらそうする。そして、買い過ぎてしまう(*^_^*)

そう、お土産を買うという行為は私以外の人に思いを注ぐという行為なのだ。
買ったお土産を渡すときの相手の笑顔を先取りして喜んでいるのだ。
そしてそれが私自身嬉しいのだ。

鍵山相談役からお聞きした話がある。
「私は何一つ自分でしたことはないと思ってますが、したとすれば私を応援してくれる人をつくっていったということかもしれませんね。」と。
例をひかれ、

”ある人が成功する秘訣を教えてくれと師匠に懇願する。師匠はここに1000人の署名(あなたを支えますという)を書いてきてもらったら秘訣を教えよう。と言われた。
弟子は色々思案し工夫して、手作りしたものを配ることにした。それをもらってくれる人にお金を取らず、署名を書いてもらうことにした。そして、評判が評判を呼び1000人の署名が集まり、それを持って行った。
「さあ、署名をもらってきたので秘訣を教えてください!」
「あなたはそれをもう経験したでしょう」”

日本人ほど”人のために”お土産を買う人種はいないと聞いたことがある。
プレゼントというほど仰々しいものではなく、手土産という感覚、またはお裾分けという風習が日本にはある。
お土産とは、どんな人にお世話になっているかを確認するのには必要な行為なのだろう。
離れた場所で人のことを思うという時間、行為がじつは大切なことなのかもしれない。

商業行為ではあるが、お土産売り場がどんどん拡大していることは、まだまだ日本も捨てたものじゃないなと感じた。



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卒業式でした

本日私としては8回目の卒業生を送りました。この度は私の感覚が今までとは違っていました。生徒に話と文章を送ったので掲載します。

『今までにない職業をつくる』
皆様ご卒業おめでとうございます。保護者の方もさぞかしご安心の事とお喜び申し上げます。
さて、我々は未知の時代へと進んでいきます。(今朝人工知能(以下AI)の倫理性の答申が出てました。)最近ではSoft BankのスマホのCMで「私たちはスマホと大人になっていく最初の学生、Super Sutudent!」というセリフを広瀬すずさんが言っています。まさにそんな時代です。
GoogleのAI開発者の第一人者レイ・カーツワイルが2045年にシンギュラリティ(技術的特異点)に到達すると予測しています。シンギュラリティとは、AIが人間の能力を追い抜き、AIと融合するという時期の事です。最近の研究ではもっと早くなるのではないかという意見もあります。早かれ遅かれその時期に我々は生きるのです。
表題の言葉は古武術研究家の甲野善紀氏の御著書(ミシマ社刊)の題名からお借りした言葉です。今からの仕事はAIにとって代わるものが多いそうです。簡単に言えば、この免許を取ったら、この会社に入れば一生安定して働けるというモデルは存在しなくなっていくということです。こう言うと”AIに仕事を奪われる”と怖がる人もいるかもしれませんが、元来、人間がしなくていい仕事をAIがしてくれるということなのですから、喜ばしいことかもしれませんね。ということは、人間は、より人間らしい生き方を求められるということです。皆さんはどんな生き方が人間らしいと思いますか?


イエローハット創業者の鍵山秀三郎氏は「道徳的な生き方」を推奨されています。自分の得になることばかり(自我)を押し通す。という生き方を諌めていらっしゃいます。
生き方に答えはありません。皆さんの人間らしい知性と活躍に期待いたします。


今という時期は、今までの色んな価値観が壊れ始めている”混沌(カオス chaos)”の時期だと考えます。古事記にも”くにうみ”で日本ができるときは混沌であったと始まります。私たちの脳内も混沌としていますよね。決して理路整然としているわけではありません。
混沌の中から秩序が生まれてくる。何か新しいものが胎動している時期は混沌なのではないでしょうか。何かが生まれてくる!その時代を一緒にワクワクしながら生きませんか?

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思いは重い?

なぜ、勉強しているのに賢くならないのか?なぜ、あれだけ暗記したのに覚えていないのか?経験したことはありませんか?という話をした。
「学ぶ」ときには、心を、コップでいう上向きにしなくてはいけない。これは姿勢で解決できることが多い。いわゆる「本腰を入れる」姿勢である。それができていないと話は入らない。いわゆる「はなしにならない」のだ。
それができているのに・・・というお話。

 

心のコップは上に向いているのに、ちゃんと聞いているはずなのに、なぜか言われたことが頭に入っていない。悪気がないだけに残念な話である。それでテストの点数が悪ければ「頭が悪い」というラベルを張られたり、自分で張ったりする。

 

頭の中を見ることはできないので仮説を立てた。
それは、心のコップの中が「思い」でいっぱいになっていないか?ということだ。人は色々な思いが心にでてくる。しょうがないことである。これをきれいに掃除しないと心にこびりついて、いっぱいになり、何も入らなくなってしまうのではないか?

 

「思う」のは「私」である。しかし、「学ぶ」のは「人・書物」からである。

本を読んでいて、いろいろ思い出して、目は字を追っているけれど、内容がさっぱり入ってこないことを経験したことはないだろうか?
人の話を聞いていて、ある言葉に引っかかって、いろいろ妄想しているうちに次の話になっていたことはないであろうか?

アレである。

 

特に君たちは「思春期」と言われる時期である。「思い」が春のように「咲き乱れて」いるのではないだろうか?

私は以前より「感想文」が好きではない。ましてや「思い」は滅多に人に伝えるべきではないと考えている。

文字通り他人の思いは重い。

 

しかし、子供たちは小中学校で、事あるごとに感想文を要求されて、偽の自分の思いを演じなくてはならない。他人に読まれることを前提とした、評価をつけられることを前提とした「思い」である。生徒は感想文が苦手だという。当たり前である。

「思う」ことに慣れさせられ、「学ぶ」ことに慣れていない者が学習をした場合、結果は明らかである。

 

「学ぶ」ときには、「思い」はしまっておきなさい。「学び」と「思い」は別である。

 

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第一回「数」

数楽の会では初めて「数学」を取り扱った。数学への誤解を解きたい!という思いがどの程度伝わるのか?が心配であった。心配は杞憂であった。11名もの方が参加され、終了後の「あっという間だった」「楽しかった」「数学を誤解してた」などの声を聞き一安心であった。
差し入れもいただき、和やかな雰囲気で始められた。

まずは暗算をしていただき、脳がいかに計算に向いていないかを実感していただいた。次に流行りのトランプ(笑)カードを使うと、比較的楽に計算してもらえるということを実感していただいた。
また、花札の説明が意外にも盛り上がった。花札のカードには数は印字されていない、「絵」から「数」を浮かび上がらせることのできる「情緒」に一同感動。
インド・アラビア数字の優秀さ、ゼロの不思議さ、桁の宗教性などを説明。


こちらもあっという間の100分だった。ありがとうございました!感謝!

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